昭和49年05月13日 朝の御理解
御理解 第90節
「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ水を流すのは難しい、道を開くと言うても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものが難しゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ、一時は難しい事があっても、辛抱してゆく内には、徳が受けられる。」
布教に出る先生方、取次者に対する御理解と思われます。その前の八十九節を頂きますと「此方の道は傘一本で開く事が出来る」と、いと簡単に教えとられます。此方の道は傘一本で開ける道と、元も要らなければ雑用も要らん。初めからちゃっと家から買わにゃならんと云う事もない。まあ言うなら人の軒下ででも人は助かるのだと。言うならば無から有が生じる道だと。それを簡単な言葉で「此方の道は傘一本で開ける道だ」と。けど問題はその傘一本でありまして、その傘一本を頂くまでが難しいのである。
傘一本を頂くまでが難しいのである。匹夫の俗人から開くのじゃから、言うならば何も解らない。言うならば、頭の良いとか、器量の良いとか言う特別な器量人でもない者が道を開くのじゃから、言うなら、平凡な人間が開くのだから、ものが難しゅうて暇がいる。そのものが難しゅうて暇がいる間に、傘一本が頂けるのだという子とです。その次に「辛抱しておる間に」と仰せられてありますね。
「たとえ一時は難しい事があっても、辛抱して行く内には徳が受けられる」と言う、その辛抱して行く内に徳を受けると云う事、その徳を受けるの徳一つで、道が開けるのだと言うのです。その徳と言うのは、信心辛抱さえしとりゃみんな誰でも受けられると、信心辛抱のその徳を受けると云う事が、徳を受けさえすれば簡単に人は助かって行くんだぞ、道は開けて行くんだぞと、だからその、成程上から下へ水を流す様な訳には行きません。是を只おかげの世界だけに見ると。
最近特に大祭を境に合楽の御広前で皆さんがおかげを受けておるような、只奇跡と言うより外にないようなおかげが頂けておる。段々開けて来る。是は下から上へ水の流す様に難しい事でも何でもない。信心が判ったからと云う訳でもない。只ちょっと親先生任せになった問いうだけで、例えばそこの合原さんの様にね、三、四日前にお参りしてきた。このお婆さんは月にまあ一回、敬親会の時にお参りして来る位の事。
もうお年寄りですから、どうかあると言えばすぐ、近所にお医者さんが出来ましたから、もうお医者さんに薬をもらいに行く、注射をしてもらう。今お年寄りの方はただで治療してもらえる訳です。所が今度の病気はそんな訳にはいかん。喉が少し腫れてきた。それが大変に痛む。そこでまあ簡単に思うてお医者さんに行った所が、これは手術せないかんと言われた。早速に是は手術さしてもらうと云う事になったから、お婆さん手術するのが恐い。そこで改めて金光様へお参りしてお願いしようと言う事になった。
それで今日手術をすると言う。手術をしても良いけれども、今日一日私が待ちなさいと言った。今日一日待ちなさいと言う間に隣の中村さんが姪に当たりますからね、叔父さんの奥さんですから、叔母さんに当たります。「もうおばあちゃん、そげな痛い思いばせずに神様一心にお縋りばせんのと、家のおばあちゃんば見てみなさい。乳癌と言ういわば命に係わる様な病気ですら医者を止めて帰って来てから。
それから頂いたおかげと云う物はあんたが見ておる通りではなかったかと、そう言うおかげの頂ける神様じゃから兎に角一心にお縋りしておかげを頂きなさい」と励まされて、その気になってまた二日待った。二日待ってる内に痛みが止まってから、二日目の明くる日は喉のぐりぐりが取れてしまったと、昨日は御礼お届けに来ました。だから是なんかいっちょも難しい事はありませんよね。ここが解ったからおかげを頂いたでもなからなければ、こげな修行をしたけんおかげを頂いたと言う訳でもない。
それこそまあ言うなら上から下へ水を流す様にいと簡単な事であった。だからそう言うおかげではです。徳は受けられない力は受けられないと云う事です。して見るとですお互いの難儀が、例えば続いておると云う事はです。大変な有り難い御神意、御神慮のある事だと、先ず知らなければいけない。その辛抱こそが身に徳を受けるんだぞと、その辛抱しておる内に開けん道も開けて来るのだぞと。だからその辛抱しておる間がです。只歯を食い縛って辛抱すると言うのでなはくて身に力が付いて来る。
身に徳が付いて来る。それを判り感じさせて頂きながらの辛抱でなからなければならない。只辛抱さえすれば良いと言うのではない。辛抱して行く間には徳が受けられる様な辛抱でなければならないと云う事になる訳です。昨日は福岡支部の御大祭でした。本当にもう年々歳々こう本当な事になって行っておると言う感じです。支部長である秋永先生の信心もさる事ながら、その周囲の御信者さん方の信心が本当なものに段々なって行っておると言う感じ。もう本当に上も下も立推の余地もないごたる御大祭でした。
是はまあ何時もの事ですけれども、丁度あちらの五月十二日と云う、その頃はお榊の木がみな新芽が出て、新芽がぐしゃっとなる時期なんですね。もういくら皆さん所のお花立ての水を替え替えしても、新芽がぐしゃっとなってしまうのです。そこで何年も前からでしょうか、色々に伐る時の工夫から、水あげの工夫から、そして愈々皆さんの玉串を上げられる時には、もうそれこそ生き生きと。もうそれこそ生き生きと、今伐って来たばかりの様なお榊を玉串に。
特に祭主の私には大きな玉串、榊を伐って来鳥ましたが、もうそれこそ気持ちがいい。そしてねもう良うあげな事が出きると思う位に、もう一寸くらいに伸びてますからね若芽が。だから一番くしゃっとなる時です。それがもうピーンとこうは跳ね返った様な、生き生きしたお榊を用意しております。皆さんも玉串を上げられるとに気持ちが良いだろうと、自分の気持ちまでもがシャンとするごたる気がします。それにはね、様々な工夫がしてある訳です。いわゆる切り口を考える。
又は色々と水上げ方法を考える。とりわけ祭主用の私の玉串になんかには、もう早く【 】を付けなければなりませんから、根元にね、脱脂綿か何かで、何時も水が切ってあるけれども、水が上がる様にして、その上から奉書紙で握るところが出来ておるのだと思うのです。ふわっとしよった。先の方が只伐って来て、只工夫もなしにしたんではです。ああ云う事にはなってまいりません。信心にもだからね我が心から練り出せとか、言うならば信心にも工夫、考慮がいる事を教えておられます。
そこで本気でその事を体得さしてもらおう、稽古さしてもらおうと云う気になると、言うならば仕事が仕事を教える様にです。新しい開眼も出来、新しい事も次々と判らせて頂いて、おかげが頂かれると云う訳です。昨日私はあちらでお話しもしませんでしたけれども、お祭を奉仕させて頂いて、今日のお祭は言うならば、一昨年より昨年、去年よりは今年と言う様に、段々おかげを頂いておると云う、その芯がどう云う所にあるかと云うと。色々工夫されておる事もさる事ながらね、只幾人かのご信者がです。
一月後なら一月後、一月前からずっと願いよる。毎日毎日お参りしてくる方達はお願いしてます。取分け池田さんとか川上さんなんかは、もう毎日ああして日参ですから毎日その事が願い込んである。私が頂きますのにね『大きな筆のね、全然腰のない筆、もう柔い筆です。是ではね字は書けませんよ。筆にはやっぱり腰がなからねばいかんです。いくら大きな筆であっても大きな字を書こうと思っても、それでは良い字は出来きん。やはり腰がなからねばいけん。
もう何の毛で作ったとじゃろうかてんで柔か、と云う感じの筆と小さいけれども、それこそ腰のあるこんな筆なら書き良かろうと云う筆』を頂いた。幾人かの人からではあるけれども、幾人かの人達が、もう信心に言うならば芯が通っとった。何でも芯無しでは駄目です。一つの筋金が通ると言う様な事を申しますね。あの人の信心には仲々ポーンと一本筋金が通っとる。只、参っとります、拝んどります。何十年信心しよりますだけではいかん。筋金入りの信心で、と云う意味の事を言われますがです。
その筋金が入っとらなければ駄目、そう云う筋金の入った信心がです。幾人かの人によって、その大祭を頂く事の為に出来ておる。それが芯になっとるから、ああした有難い御大祭が言うならば出きたと云う意味の事を頂いた。そこでお互いの信心がです。「信心は日に日にさら」と云われる様に、どう云う伐り時が悪るければ、水上げもしない様なお榊の木であってもです。それに工夫をして、さらなる心が頂けれる。その信心を先ずは工夫しなければならない。
どんなに修行の真ん中、今苦労の真ん中だと言われる時であっても、ここから喜びの新芽が出て来るような工夫をしなければならない。それこそ生き生きとしている。苦しいけれども有り難いという、新芽が新芽が出ておらなければならん。同時にです、その信心にポーンと一本筋金が通っとらなきゃ駄目。例えて御大祭を頂かして頂くまでは、こう云う修行をさして頂きますと。お酒の好きな人であるなら、お酒を飲みませんならお酒を飲みませんと云う。
もう一生懸命の言うならば、そう云う信心の筋金がポーンと通っている。どうでしょうかそう云う事を思い立つ、思い立つけども途中で、言うならば誘惑に負けてお酒を頂いて、お詫びしながら御大祭を仕えた。と云うのが私は、腰萎えの信心だと思うですね。一つの修行を思い立ちながらです、一つ、根性がない。それをやり抜かせて頂くと云う事がです。私は筋金だと思うです。だからそれぞれ人によって違って良い。私の信心にはこう云う筋金がポーンと入っとる。
信心には一つの根性が要ると云う事は、そう云う筋金が、私は根性だと思うです。そう云う信心をやって抜けた人達の信心がです。あったと云う事です。それは誰でも願わん者はありません。どうぞ、と御大祭のことを、願わん者はおりませんけれども、大きな筆であってもです。途中で腰がなえとるとがある。そげんとではいくら大きな筆でも、大きな字は書けない。腰なえ信心じゃ。そう云う例えば、腰なえ信心でです。いかに辛抱した所で、「もう十年辛抱しとります。
二十年辛抱しとります」と言うても、腰のなえたような信心では、私は徳は受けられないと思いますね。いくら辛抱しとったっちゃ。私は「辛抱して行く内にはです徳が受けられる」と仰る。と云う辛抱とはです。そう云う生き生きとした榊の新芽が、言うならば、萎れないために様々な工夫がされるように、その工夫とそのおかげを頂き抜くまではと云う、一つの根性とも思われる信心の筋金が入ってこそ、初めて道も開けるのであり、人も助かるのであり、言うならお徳も受けられるのであります。
そのお徳が傘一本、そのお徳一つでと云う事は、そのお徳一つで此方の道は、「此方の道は傘一本で開く事ができる」というのは、そういう内容が私は出来てからの意味を、傘一本といと簡単に説かれてあるんだと思います。お互いが様々な意味で信心辛抱しとります。そこで、自分の信心にはそう云う生き生きとした者がです。伴っておるかどうかどうか、自分のまた信心には、この事だけはと言った様な根性の筋金が通っておるかどうかと云う事をです。一つ反省して見なければいけないと思うですね。
どうぞ。